「近代の終焉と原発」中村敦夫

講師:中村敦夫 「近代の終焉と原発」 講演要旨

講師紹介(中西):
文化の日に、市民の方向性を考える、よき機会である。講師(中村敦夫)は、参議院議員時代も現地・現場主義を貫いた方である。

たまあじさい代表(濱田)挨拶:
講師と日の出時代からの関係、係りについて

講演:

無精ひげを許して欲しい。来年のNHK大河ドラマ「平清盛」のおじいさん役で出演するための役作りゆえ。最近、二冊の本を出した。ひとつは個人的には種田山頭火に傾倒している。『カラス鳴いて私も一人(山頭火物語)』を出版し、自分で芝居もする(明大前の小劇場で、11月5日、6日)。何故、この本を書いたか? 明治以降の激しい近代化、自然破壊と血で血を洗う競争の時代で、山頭火は、落ちこぼれである。自分の救い、癒しを求めて、放浪の旅に出る。矛盾のなかで純粋に生きたことに共感をおぼえる。

もう一つは、本日のテーマである『近代が終わる』、まさに3.11に重なる時に『簡素なる国』を書いた。これは同志社大学大学院での3年間行ってきた講義を要約したもので、それは、講師である自分、中村敦夫の現場主義からの自分の人生と世界を総括したもので、人生で一度きりしか書けないものである。

いろんな事件が起きて、危機的状況にある『近代』を総括することが必要である、と思う。テレビや新聞では、部分的で、それが損か得なのかのチマチマしたことばかりゆえに、大きな構造的問題、実際に起こっている大きな危機、ともすれば人類の終焉となるかも知れない、その近代のモデルの総括と構築が必要なのだ。講演者は、いろんな職業(どこでも戦いばかりで疲れるが)ジャンルで働き、巻き込まれ、社会の仕組みたるものを見ざるを得なかった。学者ではない私が、自分の人生で修羅場を潜ったものとして、総括をする。(講演者は自分のことには関心がない、と言われる。これは役者がナルシズムの境地に立つとは全く反対のことなのだが)。

『近代』とは、膨張主義、経済を(神の言葉のごとく用いる)グローバリズムである。
『近代』とは、産業革命から二つの理論;無限の経済成長と科学技術万能主義の理論の二つのレールに乗ったものだが、これは暴走する、即ち、破局への理論であったのだ。

人類の未来を閉ざす四つの壁

1. 戦乱拡大(兵器技術の発達、大量殺戮兵器、世界は血みどろ、核兵器=危険すぎる)
2. 環境破壊(成長のための資源収奪、有毒物質で満ちている)
3. 人口爆発(先月末で世界人口は70億人、2050年には90億人との予測、主要国では日本だけが減少しているが、人類としての種の限界が来ているのでは)
4. 経済崩壊(ギリシャに限らず世界中の国々が財政赤字、成功している国は一つもない)

これらの問題は普通の人が考える話ではないかも知れないが、リーダーだろうと普通の人だろうと避けては通れない問題である。狩猟と採集の時代から、農業(食料の計画的生産)を発明してから、人類の文明の大転換である『産業革命』まで、一万年間、地球の人口はずーっと5億人だった。つまり手仕事によるだけでは地球が養える人口は5億人が限界だったとも言える。しかし『産業革命』が起こり、即ち経済成長至上主義により農業から工業への転換がなされ、食料などの大量生産が可能になり、1960年は30億人だった人口が、この50年間だけで二倍以上の70億人にもなった。経済成長至上主義は(資本主義だろうが社会主義だろうが)生産の拡大を求め、それは生産人口と消費人口が増えることで、安い労働者を求め、発展途上国の人口爆発を招いてしまった。当然、食料不足、水不足が顕在化してくる。18世紀の産業革命まではひとつの家に5人で暮らしていたのが、今は70人家族の大世帯となったのである。限界に来ていることは間違いない。当然、人口削減の動きもあり(木枯紋次郎も蒟蒻を被せられて、間引きされそうになった)、ユダヤ資本がそれを研究し、それは有色人種差別や優生学となり、それが皮肉にもナチスのユダヤ廃絶にも形を変え、ひいては大量破壊兵器へと。人口爆発の経済の負荷は環境の限界を超えているからである。

戦争の原因について。そもそも誰も好きで戦争をやる訳はないだろうが、古来からモノの奪い合い、『貪欲』に始まる。15世紀の大航海時代からのスペイン・ポルトガルによる第一次戦争のグローバリズムが重商主義で、化石エネルギーの産業革命による農業から工業への産業シフトが、資源と市場を植民地に求めての獲得競争が、第二次の戦争のグローバリズムとなり、二つの世界大戦を引き起こす。結果として、(侵略は神の意思との国是の)アメリカの一人勝ちとなり、その戦略は尖兵を送り、現地を混乱させ、国際問題を起こし、鎮圧する。戦争は経済発展のための手段なのである。死の商人に留まらず、戦争は総需要を喚起、拡大するから。経済は侵略を、戦争を正当化するし、中曽根はその『不沈空母』発言にみられるように、我が日本はそのパシリ、補助機関なのである。中曽根は短期ハーバード留学後に、原発の平和利用として開発予算を国会で通し、正力松太郎は特高出身ながら読売新聞を通じて、キャンペーンする。同時期に第五福竜丸の事件などがあったが、アメリカの謀略にのって、戦争は経済のため。経済は大切でありがたきものゆえ、結果として戦争もやむなし、となっている。

環境問題。経済のためには仕方がない。工業を優先するがために、農業補助金は口止め料的なものだ。人間の根源の食べ物を生産するのに。しかし経済は崩壊し続けている。近代経済学は正しかったのか?世界中の国々が財政破綻することが確定。計量経済学に本質的に意味があるのか?学者であり、実業家でもあったシューマッハ(1970年著書 SMALL IS BEAUTIFUL)はケインズ学徒であったが、モラルを重視し、エコロジストの観点からの環境経済学者である。彼は自然・環境からの収奪は経済学の上ではコスト、原価が掛からないとしていては、バランス(貸借対照)が成り立たないと看破した。

経済成長率とは何ぞや? それが何をもたらし、誰を幸せにしたか?経済学は人々をどのようにして幸福にするかのための学問ではなかったか?経済成長は、資産が増えることを意味するが、実際は格差が広がり、圧倒的多数が貧乏になるペテンである。19世紀にオクスフォード大学で近代経済学が学問として成立するまでは、お金はなんとなく卑しいものとの価値観が支配していた。(例:シェイクスピアの『ベニスの商人』)

経済学が発達(?)し、当初は実物経済が主流だったのが、アメリカで金融経済となり、規制緩和が進む過程で、ユダヤ資本に代表される金融のグローバリズム(これはMONEY GAME、虚業そのものだろう)が本格化し、結局は2008年のリーマン破綻を招いた。博打ともいえるMONEY GAME にはモラルがない。(博打にさへ厳しい掟があるのに)グローバリズムにはいろんな問題が有りすぎる。その反対概念のローカリズムを。ローカリズムとは、自分の周りを大切に、エネルギーと食料をローカル(地域)で自分たちで創り、協力し、自立することである。

原発問題:

地球上には既に広島原爆の200万発分の放射能が核廃棄物として存在する。まさにトイレなきマンション。管理・処理できないものは技術ではない。最も危険で深刻なものが核分裂。大気圏内核実験でシューマッハは「自然界に加えた変化で最も、人類の生存を脅かすものであるのが核分裂物質」と指摘。放射線は遺伝子を傷付け、ガンの引き金、リスクとなる。許容限度、少ないから大丈夫であるとは、誰も証明できない。シュバイツァー医師は、「誰がそれを許した。誰がそれを許す権利があるか」と厳しい言葉で批判している。確かに500ベクレルは駄目で、480ベクレルならばどうして大丈夫なのか。誰も合理的説明は出来ないだろう。 原発従事者、全国の電力会社は原発での300回もの事故隠しをしていることが判明している。そもそもこんな危険な原発は必要か。データの捏造、改竄は当たり前。それが発覚して東電管内の福島・柏崎刈羽の原発が停止しても電力不足の停電は起きなかった。 八百長が、法治国家で原発推進することで行われている。 SPEEDIのデータ隠匿で、飯館村の住民が危険に曝されたことに対して、お役人は、「私達は法を守るもの。命は担当していない」と給たまったらしい。電力業界は、経済産業省のコントロールを受けるものの、電気事業法で総括原価(公共事業)方式で利益も保証されていて、競争なし、天下り有りの天国のような世界である。また、電力業界だけで、産業界に年間1兆5千億円もの設備発注があるので、利権の巣窟で、発言力もとてつもなく大きい。原発政策は、地方へ誘致するために、田中角栄時代に、電源三法が作られ、毎年
4,600億円もの予算があり電源三法による地方自治体への交付金は電源三法交付金が、2008年福島県に140億円、4つの町に50億円が交付されている。それなのに、そのうちの一つ、双葉町は3.11前に既に財政的に破綻し、事業再建団体となっている。電力事業は、『送発分離』つまり送電、発電を分離し、新規参入を可能にする競争原理が働くようにすべきである。例えばNEDO(自然エネルギーを担当する政府機関)も送電網さへあれば、将来は30%程の電力需要を任せられる予測をだしている。

質問に答えて:

主要国の中で、人口が減少しているのは日本だけ。50年後には5千万人に減少するとの予測もある。日本は既に1970年代に『成熟社会』(必要最小限の健康で文化的な生活が営める水準)に到達しているのだから、グローバルではなく、ローカルに根差した社会へ方向転換をすすめるべきである。その意味では、故大平首相は、政治家としての理念があった。彼は田園都市構想、ソフトの創造を考えていた。シュマッハ—は、文化の中心としての都市は人口がせいぜい30〜50万人が限度で、その周辺に田園、さらに里山を置くものであった。それを彼は発展途上国、主にアジアの現場から学んだ。中間技術に重きを置いて、あまあり機械に頼らず、手仕事を大切にする。そうしたら毎日が十分に充実した生活が送れるだろう。人々はせいぜい1キロばかりの周辺に関心を持って、エネルギーと食糧の自給を高めて、自立出来るようにすることが、人類の破綻を回避する方法ではないか。日本には、江戸時代から循環型社会があった、模範があったのである。

記録者後記:
講演者の中村敦夫さんは、なんとも何事にも恵まれた才能の持ち主で、それゆえ運命の悪戯なのか、いろんな仕事をすることになり、本人自らが言われるように、「複雑な世の中に巻き込まれることになり、戦いばかりで疲れた」とのことだが、そのお陰で近代の仕組みが身を持って見えた方なのだろう。その総括として、ここにかくあるべし、ありたしと、『簡素な国』の上梓となった。この複雑怪奇な世の中を、恵まれた能力で人生を目一杯全力投球で生きてこられた。それはそれで、他者からは推し量れるものではないだろうけど、なんとも豊かな(単に経済的な意味合いだけではない)人生なのだろうか!と羨望の念をも混めて思う。その量的にも質的にも類まれの豊かさで、芳醇な醸造発酵過程を経てきて得られた酒精(スピリット)が、『簡素な国』なのであり、本日の講演だったと思う。でもその趣旨を本当によく理解するためには、例えば農村を語るには、都市を知らなければならない。都市を語るには、農村を知ることが必要であろう。『簡素な国』を本当に理解するには、我々も豊かで、深い、芳醇な経験(別に物質的、経済的な意味合いだけではなく)に裏打ちされた人生を過ごすことが必要なのだろうと。でも、本当の平和は、戦争の後にやって来ると言っていたのではもう遅い。そのために「想像力」が必要で、このような学習会が必要なのだなと、改めてまた、遅まきながらも思った次第です。
たまたま今週は記録者にブルガリア人の来客があって、出張のついでに安曇野のワサビ農場を案内した。殆どがシルバー世代のバス旅行のお客で混んでいた。ブルガリアではこんなに老齢の世代が大挙して、とくにこの秋の時期に観光地に現れることはないという。勿論、経済的余裕があるかないかの問題もあるが、そのブルガリア人が言うにはブルガリアの老人は、『地下室経済』で忙しいのだとニヤリとして言う。でっきり税金逃れのアルバイト所得と言う意味で『地下経済』のことかと思いきや、都市生活者も含めて、大勢のブルガリ人は田舎や郊外に住居や農地や小屋を持っていて、そこの地下室に秋の収穫物(トマト、きゅうり、ジャガイモ、葡萄、たまには豚一頭分の脂身や腸詰)を加工して、瓶詰めや燻製にして保存するために忙しく、とても日本の老齢世代のように観光の遊びに行っている暇はないのだよ、と言う。それが良いのか、悪いのか。ちょっと羨ましいような。今回の講師のお話を聞いてますます、そろそろ価値観の切り替え時かなとも、また遅まきながらも思った次第です。
本旨に直接は関係ないが、講演後の茶話会で、伊東明子さんが自己紹介で話された「年齢を重ねてきたせいなのか、此の頃思い出す昔の友人や知人はみんな何故か、山登りとか、昆虫採集とか川遊びとか、自然が大好きだった人ばかりです」という言葉が心に響きました。(会場が一瞬、水を打ったようにシーンとなった気がします)生半可な理解かもしれませんが、やっぱり人間は自然という大きなものの中で、生まれて、育って、生かされて、癒されもして。それを判っている人は当然、自然が好きな幸せな人たちで。だからその方たちが伊藤さんのお心に生きていらっしゃるのだな、と。

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