「原発・放射能汚染とゴミ焼却」2種のゴミの後始末を考える 広瀬立成

「原発・放射能汚染とゴミ焼却」2種のゴミの後始末を考える
講師:広瀬立成先生 講演要旨

講師は物理学者として、町田市ごみゼロ市民会議、ゼロ・ウェイスト運動に関り、著書名『物理学者、ゴミと戦う』の通り、ゴミと戦っておられる。講演の前半は、ゴミ一般と原発と原発(事故)後について。後半は『町田市・ごみゼロ社会市民会議』とNPO法人『町田発・ゼロ・ウェイストの会』運動の具体例も挙げてのお話、さらに拡大生産者責任の考え方、これからの社会への提言であった。

物理学者がどうしてゴミを研究するのか?何故なら、全国の一般(家庭)ゴミだけで年間5,000万トン(東京度ドーム136杯分)をも排出し、それに3.11の放射能ゴミや、水俣の水銀ゴミを撒き散らす社会は、環境・資源を使い捨てにする未来のない『非・持続社会』だからである。持続できなければ、我々の子孫の世代に世界(自然、社会)を残せない。我々の子孫に胸を張れる社会はどのような社会であるべきか、ということを科学者、物理学者としての観点からこの問題に関わり、問うて来られた。一般(家庭)ゴミは収集され、中間処理(焼却処分—日本には世界の3分の2に相当する1,400基の焼却炉がある)され、最終処分(埋立て)され、そこには年間2兆円も費やされている現実がある。

環境エンジンの図式からわかること
物理学の『質量保存の法則』(物質不滅の法則)から、生物・生産・経済行為などは全て環境エンジンの活動であり、資源は(ほぼ)100%そのままが廃棄物となることが説明できる。(厳密に言うと環境エンジンの活動においては、100億分の位1の質量がエネルギーとなることが、相対性理論:E(エネルギー)=M(質量)C(光速)の2乗の公式で説明出来るのだか、それはあまりにも僅かな量であるがゆえにこの場、地球上での社会生活を考える分には、無視してもよい。ちなみに原子炉の核分裂のプロセスは、自然や我々の通常の活動である環境エンジンの場合の一億倍、つまり質量の100分の1もがエネルギーに転換されるのである。この場合の1%は大きい。しかしそれでも核物質の残りの99%は、恐ろしい高レベル放射性廃棄物として排出されるのであるが) 環境エンジンを図式で表すと

資源100トン(入り口) → 環境エンジン  →   廃棄物100トン(出口)
石油・食料・水     人間・生物・自動車・企業活動  ゴミ・埋立て・排気ガス
ウラン             原発          放射性廃棄物

環境エンジンの図式で説明できることは、『質量保存の法則』から、入り口にて例えば資源の百トンを、環境エンジンである人間や生物が、あるいは企業がその活動でいくら徹底的に効率よく消費しても、出口の廃棄物の総量も、百トンに変わりがないということである。(呼吸や排気ガスとして変換されて目に見えなくなるのもあるが。例えば自動車が30リットルのガソリンを消費して5百キロも走っても、そのガソリンに含まれる炭素は空気中の酸素と燃焼により結合して、目には見えないものの二酸化炭素として排出されるから、そのガソリンと一緒に消費された大気中の酸素が、化学結合(酸化=燃焼)して排気ガスと水蒸気として合計して二倍以上の70キロ程の質量が、広義のゴミとして、出口から廃出されるのである。ガソリンは、自動車が移動した距離の代償として、地球上から消滅してしまうのではなく、大気の酸素と結合し形を変えて、ありがたくないNOXやSOXなどの有毒の排気ガスも含めて、存在を続けるのである。ゆえに物質不滅、質量保存の法則が引き出せる。) 全ての資源は、それが消費されること(環境エンジンの活動)で何と、全量が廃棄物となってしまうのだ。では、何故に廃棄物は問題なのか。一つには、焼却ゴミも排気ガスも有毒性があること。そして廃棄物を有効利用、再利用することは困難を極めるということである。(だから廃棄物なのだが) 『質量保存の法則』から、自動車が30リットルのガソリンを消費して500キロの移動(仕事)をしたら、70キロ程の廃棄物(ほとんどは二酸化炭素と水蒸気)が排出される。しかしこの70キロの廃棄物に何らかの新たな仕事を期待することは難しい(エントロピーの法則)。これまでの、特に高度成長期以来の50年間の我々の社会は、大量生産、大量消費、そして大量廃棄にどっぷり浸っている社会であった。これは廃棄物の蓄積社会に他ならない。環境はやがて近い将来にも廃棄物だらけになってしまう。これでは、真の意味での豊かな社会を持続してゆくことも出来ずに、次の未来の世代に引き継いでいけないことがハッキリしている。廃棄物の蓄積を極力抑えるシステムを導入しない限り、人類に未来はない。これが物理学者としての結論である。

持続社会のためには
適量の生産・適量の消費・少量の廃棄の(循環型)持続社会に、2R(REDUCE・RE−USEの2R。もう一つ、RECYCLEのRを加えて3Rとする表現もあるが、リサイクルは洗浄や再生の工程で別の資源を費やし、環境に負荷をもたらすので最近は推奨しないと)を徹底することで、資源を再使用、再資源化する社会に変換していかなければならない。つまりは前述の廃棄物の低減を図ることなのである。これはまさに経済学者シューマッハが1960年代にすでに唱えたように SMALL IS BEAUTIFUL の社会への転換なのである。あるいは、日本では古くから言われていた『もったいない』の精神によって、循環型、持続可能な社会が実現できるのである。これらのことが、社会のことを扱うのとは、一転かけ離れた学問であるような、物理学の理論からも証明できるのである。

原発の、ただちの危険性
原子力発電について考える。原子は最小の物質で、電子と原子核から構成される。原子の核は、原子の10万分の1の大きさしかない。その原子核を、実験室レベルならばまだしも影響は限られるが、原子力発電のために、太陽系、地球誕生以来の40億年の自然界の安定性に反して、原子核をいじくる(人工的に核分裂を起こさせる)ことは、自然の安定を崩し、結果としてたいへん深刻な影響を我々市民と未来の世代が被ることになる。原子核に手を突っ込んだ瞬間から人類は、地球はとんでもなく大きな危険性を背負ってしまった。一瞬にして、社会が死に瀕する危険性のがあるのだから、持続などできる社会であるわけがない。これは、国家、産業界、参加企業の問題なのだが、それを許した我々市民にも責任あることなのである。詳しく述べるならば、現在の技術では原発の廃棄物、特に資源であるウラン燃料はこれも環境エンジンの一種ではあるが、原子炉での核分裂によって、99%がセシユウム、ヨウ素や、そして文字通り地獄からの猛毒の使者、プルトニウウム(核の)廃棄物となるのであるが、それらの高レベル廃棄物は、ガラス固化体のドラム缶に入れて処理される。プルトニユウムの半減期は2万4千年にもなるので、殆ど消滅して、影響を失ってしまうには、その半減期の10倍の、つまり24万年後の彼方まで厳重に保管することを要求されている。そのガラス固化体のドラムは、近づいただけで人間は20秒で即死するほどの、危険極まりない放射性物質の毒の固まりなので、それを作り出した人間は、製造物責任からも、また現行法からみても、ほぼ無毒化するまでに必要とされる24万年間もの時間にわたり、生産者の責任として善良注意管理義務を負うことは当然であろう。(しかし24万年をも逆に過去に遡れば、類人猿やナントカ原人の時代である。果たして数十年後の将来でも、それどころかフクシマの人災の責任の所在も反省も僅か一年で覚束なく風化しつつあるのに、何処の誰が24万年間をも記憶し、責任をもって管理しているのだろうか。猛烈な放射能を出しているガラス固化体のステンレスのドラムそのものも24万年もの間、テクニカルな意味で無事で存在し続け得るとも思えない。それどころか数十年の耐久性も本当にあるのかどうか。壊れたら誰がどのようにして修復し、また安全な保管を継続して行くのか。まさにトイレなき、マンションと言われる所以である。) もうすでに日本だけで1万5千本のドラム缶が生産されている。もし日本全部の54基の原発が稼動していると、高レベル廃棄物だけで毎年、年間1,500本が蓄積される筈であった。これは原子爆弾1,000個分の放射性物質に相当する。それが4万本になれば、地下300メートルに安置すると言うのだが、国内の受け入れ先は、当然のことながら未だ決まっていない。万一その保管場所が災害や事故などで破壊されれば、原子爆弾の一万数千個分の放射能が地球環境に放出されることになり、日本人のみならず、全人類の存続さへも脅かす。日本列島の何処においても、いつの時でも発生し得る地震と、全土を巡る豊富な地下水脈を考えるまでもなく、誰が考えても、考えるまでもなく、なんとも危険極まりない、且つ無責任な政策である。(ましてや24万年間にもわたって人類滅亡の危機の未来を心配する。それは我らの同時代が招いた人災であるがゆえに、なんともその想像をするだけで、心も申し訳なく顰蹙し、頭が疲れてくることである。)

原発については、「大きな事故原因となる事実は過去になかったことは勿論、将来にあるとも思えない」という原子力の安全神話が、原発を導入するために1960年代に作られ、そのテーゼで50年近く推進されて来て、もろくも崩壊した。(この期に及んでも、未だに廃絶は約束されていないが)しかし、原発をやめてもフクシマに限らず、核廃棄物の絶対安全な保管の問題がある限り、原発政策は、絶望的に危険極まりない政策に変わりはない。この問題は、原子核分裂に着手した時間からリスクを背負った、国・企業・政府、そして市民の責任でもあるのだ。しかし出来るだけリスクを少なくしていくことは、まだ出来る。まだ、遅くはないと。少なくとも次善の策を講じるべきである。

エネルギー問題
ならばエネルギー問題はどうするのか。エネルギーの消費は、富である、幸せであるとの考え方を反省しなければならない時代ではあるが、(地球が何十億年後かの将来に太陽に焼き尽くされ、飲み込まれる前に)唯一の永遠のエネルギー、安全なエネルギーは太陽である。地上に降り注ぐ太陽エネルギーの僅か20分の1しか、未だ利用してはいない。現在の自然エネルギー(太陽熱、太陽光発電、風力、地熱等)の利用率は未だ4%である。
環境エンジンの項目で、廃棄物の利用はいかんともし難い(エントロピーの法則)と述べたが、これにあらたな命(エネルギー)を付与できるのも太陽のエネルギーと我らのかけがえのない地球のシステムなのである。自動車の排気ガスの水蒸気は、大気中に拡散し、天空にて放射熱を宇宙に発して、冷却され雨となり再び地上を循環する。二酸化炭素は、草木の葉緑素が太陽光の力をかりることで、一部分ではあるが光合成の原材料として、還元され再利用も可能ではある。(太陽エネルギーの素晴らしさを謳うために例を出したが、化石エネルギーから排出された二酸化炭素を、ただちに植物によって全量が吸収されるのを期待するのには無理がある。出来ないから残った二酸化炭素は温暖化ガスとして問題であり続ける。しかし植林や緑化運動は、太陽光の力を借りて、そのお陰様で廃棄物の還元の一助となることも事実である)太陽エネルギーに起因する自然エネルギーの有効利用を2020年には、20%、2030年には30%まで高めて行きたい。そのためには、まずはそこそこの生産、そこそこの発展、適量な生活を計るべきではないだろうか。小さなことからスタートすること、その意識が大切なのだ。我々がやらなければ誰がやる!ということである。これも物理学者としての結論であるらしい。

町田市での関りと運動について
2006年に町田市でのゴミ・ゼロ市民会議、134名の市民が280回の会議を通して、ゴミ低減に取り組む。とくに一般ゴミの40%ほどもある、生ゴミを堆肥に変えることは、大きな意味を持つ。先ず、ゴミの量の減少、焼却炉での燃料の節減。そして環境エンジンでも述べた廃棄物の産出の低減を実現する。また自然ゴミ(主に生ゴミ)と人口ゴミ(主にプラスチック)の違いを理解することとし、そこに鉄則が生まれた。

鉄則1 「人口ゴミ」を減らす   (廃棄物の蓄積を減らす)
鉄則2 「自然ゴミ」を自然に返す (循環となり持続を可能にする)

その理念は、ゴミを作らない、燃やさない、埋立てないである。町田には、町田の、
23区には23区の、青梅には青梅の、地域には地域に根ざした方法があるはずである。意識を持つことが大切であって、最初は小さいやり方でスタートすればよい。具体的には、『リサイクル広場町田』の設立、レジ袋廃止とエコバッグ持参、お祭り・イヴェントをエコで行うなどの運動を展開した。さらに市民も勉強しなければならないとNPO『町田発・ゼロ・ウエストの会』を21年度・環境省循環型社会地域支援事業と2009−10年度・トヨタ財団地域社会プログラムの支援も得て発足。地域内での、生ゴミの堆肥化、休耕田などでの有機野菜、食材を家庭や学校給食にも使用するような、持続ある(物資)循環型社会の形成を目指す。ゼロ・ウエイストとは、無駄を排除、ゼロにするということ。
これまでとこれから
これまでの大量消費社会を、つまり廃棄物蓄積型社会を推進して来た思想は、電通の戦略10訓に要約できる。(元のアイデアはヴァンス・パッカード著『浪費をつくり出す人々』(1960年)といわれる。)しかしそれを否定すれば、これは持続社会を築き上げるための反対の戦略10訓とも言える。(筆者注:ちょうどインターネットからその趣旨の投稿を見つけたので、その右側に記します)
電通戦略10訓         すずめちゃん投稿 (題名:これで エコ)
1. もっと使わせろ       使うな
2. 捨てさせろ         捨てるな
3. 無駄使いさせろ       貯めろ
4. 季節を忘れさせろ      四季を堪能しろ
5. 贈り物をさせろ       贈り物は贈るな
6. 組み合わせで買わせろ    必要なものを単品で買え
7. きっかけを投じろ      煽りに乗るな
8. 流行遅れにさせろ      流行を追う必要は無い
9. 気安く買わせろ       熟慮してから買え
10. 混乱をつくり出せ      混乱するな。目的を見失うな (2009・2・10)
ゼロウェイスト(ゴミ・ゼロ)の社会を到来させるには、よく政府やお役所が未来を予測する FORE CAST の方法ではなく、欧米では一般的な10年後や10年後の社会がいかにあるべきかの目標を設定して、そこから考える BACK CASTING の方策が有効であると考える。そして、どうするか。廃棄物を低減し、我々の子孫が未来においても持続出来る社会を実現するためには、ひとつはゴミを燃やさないこと。もうひとつは拡大生産者責任、つまり製造者が作った製品に自己責任を負うことの徹底である。社会通念となればよい。(今でも酒の販売店に持ち込めば、ビール瓶は5円、一升瓶は10円と、昭和30年代からも続いている模範的なDEPOSITのシステムもあるのに。事実あったのだから出来ないことはないだろう)現在の日本では製品の最終処分は、ほとんどが自治体などの費用負担で廃棄・処理されている。しかしこれは結局、我々の費用に転化されている。製造者が最終の処理費用まで負担をすることを社会のルールとすると、メーカー、製造者は再使用可能(REUSE)な、より廃棄物にはなりにくい(REDUCE)製品を開発してゆくに違いないからである。

質疑応答から

— 当局の測定や発表、政策が正しいものと盲信してはいけない。疑問を持つべき。
— ゴミは出したところで引き受けることが基本である。(地域内処理の原則)
— 放射能を帯びたガレキなどは、やはりフクシマの立入禁止区域に持ち込むしかない。津波対策の堤防などに使用するのが好いだろう。同情や義侠心に訴えて、ばら撒いて日本の他の地域や世界まで汚染を広げるべきではない。希釈し、拡散・ばら撒いて、それが本当に道徳的なのだろうか。
— 人類が未来に生きるためには、我々の生活が(社会の、あるいは生命の)持続性のお手本となれるよう。焼却は、未来への発展を拒否することである。
— それは日本の最近の動きにも顕著にあらわれている。汚染物質とその排出の責任を明確にすることなく、いたずらに拡散・希釈して、曖昧、うやむやにしてしまう体質が社会に蔓延してきているのではないか(主催者の終わりの言葉)

人類(ありとあらゆる生命を含めて)は、地球の40億年の産物なのだから、人類がいつまでも生き延びられるよう、生命の持続性を計らなければならない。それは我々、市民の責任である。これからも広瀬先生には物理学者として事象を説明して、是非を問うて頂きたい。

以上、

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