「地下水汚染のはなし」 瀬戸昌之

講義: 地下水汚染のはなし
講師: 瀬戸昌之さん

瀬戸先生の講義は、本人もお仰せのごとく、やさしい用語と数値での説明でわかりやすかった(誰かに受け売りで話したいくらいに)。確かに水のことは誰にも身近で大事な問題である。講義を聞いていて、理解するために自分なりに考え、解釈をする。この日本で一年間に自分の身長に匹敵するくらいの降雨量があり、狭い国土ではあるが、それは一人当たり5,400トン分にもなる。これは?に天を戴く限り、等しく得られる(べき)途方もない財産である。よくぞ日本に生まれける。小学校のプールならば15杯分、家庭用のバスタブならば、三万回も使用できる。そのうち約3,800トンはなすすべもなく海に流れたり、太陽で乾燥されたり(蒸発)、植物の活動(発散)で大気に還流するものの、河川や地下水、あるいはダムからの供給で、一人当たり740トンの水が、我々の日々の生活や農業・工業生産に供される。つまり一日2トンをも消費していることになる(家庭の生活用水は一日0.5トン程度)。何と豊かな資源だろう。石油に恵まれたアラブ人が日本の豊かな水資源を見て、「神様はなんと不平等なのか」と叫んだと聞くが、さもありなむ。

この恵まれた水資源が、日本の米を作り、野山を潤し森林を涵養し、ひいては何事もきれいさっぱりと水で流して、禊(ミソギ)することでナンデモカンデモ戦争責任をも忘れてしまう日本人の気質も作り上げた。バカみたいだけど気楽に生きれることは悪くはない。山川草木悉皆有仏性。世界でもこんなに水に恵まれた四季のある美しい国土はそうはないだろう。豊かな水資源は何ともありがたい。その水が美しくおいしく保たれている限りは。

さて、環境問題について。住んでいる自然環境を守り、健康に生きれて、持続可能な経済と社会を実現してゆくための三つの切り口が提起された。(1)水、(2)ゴミ、(3)拡大生産者責任である。ところがどうも、すんなりと問題解決すると困る連中(問題を複雑にして公共のお金をたくさん使って利益を生む利権構造)がいる。そして、そこから巧妙に(体制:政官業と巨大マスコミにより)形成されてきた常識(?)を疑うことなく、おとなしく受容する、権力者に対して優しい、物分りの良すぎる社会があるようだ。そのことが問題解決をさらに困難にして、自然が破壊され、健康が脅かされ、我々市民の生活が危機に瀕することを強いている。(そして国・地方の財政問題として膨大なツケも回ってくる)

1. 水(日本の水の流れ)について

水問題にどのようなものがあるか?
1)洪水
2)水不足
3)汚染
以上の3つしかないだろう。降れば土砂降り(洪水)、降らねば干ばつ(水不足)となるのが、水問題でもある。講師が用意されたレジメの図(日本の水の流れ)を参照;

日本の年間降水総量は 6,500億トン。日本の面積37.7万平方キロに年平均1,700mmの降水量があるゆえに、そのうち三分の一、2,300億トンが蒸発散(乾燥の蒸発、植物の蒸散)として大気に還流し、残りの4,200億トンが土地に浸透したり、河川に流れる。その半分、約2,300億トンが、降ったら一気に海に流れる。残り1,900億トンがいわゆる通常の川の流れとなり、そこから取水されたり、ダムや地下水からの900億トンが生活、農業、工業の用水として使用される。しかしこれが日本での使用の限界?(日本人一人当たり年間740トン)経済成長と同じく、さらなる増加は見込めない。

では、洪水や水不足を起こさないために有効なのは、どんな方法だろう?
ダムは? 多目的(生活、農業、工業用の?)ダムは治水と保存という言葉のごまかし、
ムダ(無駄)なのだ。ダムの保管能力は全体で200億トンしかない。用途を限定した治水ダムは24億トンのみ。費用は莫大に嵩んでも、自然の猛威のもとにこころもとない。
ダムの建設によって、反対に、川が流れなくなる現象、水枯れ(水不足)が頻繁に起こる。
洪水や水不足を起こさぬためにも、水源涵養保安する森林は大切である。

100の面積に、僅かな10mmの雨が降ると、一の面積にたまる水は1,000mmとなる。これを想像する感覚が大切。都会はコンクリートとアスファルト、だから雨水は染み込まず、都心ではそのまま表流して神田川に雪崩れ込み、すぐに満杯状態になる。ゆえに環状7号線の地下には直径12Mの巨大パイプが走り、洪水を起こさぬように引き込む施設がある。埼玉県にはパルテノン宮殿のように壮大な、30万トンの地下ダムが、
1,000億円をもの経費を掛けて設置されている。他にも製造中、計画中の地下ダムが、巨大工事ながらも地下で、人目を憚るように静かに進行している。

ところで、1キロ四方の棚田にはどれくらいの水が保水されるだろうか?
1,000×1,000×0.3M(水田の推進が30cmとして)=30万トン
これは巨大地下ダムの貯蔵量に匹敵する。地下ダムのメンテナンスだけでも年間100億円という、莫大な費用が掛かる。しかし水田ならば、農家に依頼すると、1億円もあれば十分だろう(そして当然ながら、米という生産物が出来る。1平方kmは、100町部、つまり1,000反、反収10俵として10,000俵、すなわち600トン、キロ当たり200円としても120,000,000円、つまり1億2千万円の売上にもなる)
棚田・森林は自然の保水力の素晴らしい力を有する。(コストも掛らず、生産物が得られる)そこに染み込む地下水も膨大な量で、地下水が数年から数十年も掛けて流れる地層は壮大且つ緻密で精巧なフィルターであり、自然のイオン交換樹脂膜とも言える。天の恵みの雨水を、森林や田畑を大切に涵養することで自然にうまく地中に浸透させれば、洪水も防げて、河川の流れも安定して用水の確保が出来る。水不足の際は、地中に多量に浸透して蓄えられている地下水は補完的役割も果たし、供給問題はいとも簡単に解決するだろう。日の出町の公共下水道を完備することは、地下水や河川への生活用水が染み込まなくなることで流れが細まる影響が出るらしい。それを予知して日の出の漁業協同組合長も反対していた。

地下水を詳しく見ると、その貯水量は関東平野だけで4000億トンもある(日本の全部のダムで200億トン)。水の需要は低下しつつある(生活用水、工業用水の減少)。なのに何故、八ッ場ダムなどの巨大工事が急がれるのか。政官業の癒着=権力構造にほかならぬ。ケインズ経済学の模範的公共事業あのテネシー川TVA計画さへコスト・パフォーマンスでは無駄であったとの評価が下されている。ダムはやっぱ(八ッ場)り無駄である。

自然の大地が持つ保水力が如何に素晴らしいものか。大雨が降ろうと、日照りが続こうが、山の宿の渓流の水量は年中、ほとんど変わらないではないか。(人物も器が大きいと感情を露わにしない)雨水をよく染み込ませることにより、地下水を蓄えることは、洪水を未然に防ぎ、旱魃をも救う。自然の大いなる力はもっと尊敬され評価され、頼られるべき存在であるのに、この恵まれた日本の国土では利権に群がる矮小な産官業により歪められている。まったく地下水は良いことだらけなのに。夏冷たく、冬暖かい。そして安い。飲んでおいしく、地場産業を育てて来た。なんと安価な資源なのだろう。井戸水を30m堀り下げ、電動ポンプを設置しても、1M3のコスト単価は僅か7円。身近にあるのに気付かない幸せのようなものだ。立川の水道料(庭木に掛けても課金される)160円程(300円のところもある)。一般家庭には、さらに下水道料金が加算される。ぼったくりのような水商売そのものではないか。

ところが、その地下水が汚染されて来ている。巨大ゴミ処分場による汚染は、遮水シートなどで守れる訳がない。あるいは、顕著なのは半導体工場等によるトリクロロエチレンの汚染。農工大の井戸ではWHO基準 30ppbの10倍を超えていた。7,000万円の浄化装置、井戸水を汲み上げ曝気、ガス化して活性炭処理と、たいへんなことになっている。地下水の量は膨大であるから、汚れに気づきにくい。気付いたときは、もう遅い。原因ははっきりしていても、その因果関係を証明してゆくことは難しい。

水の独特の性質についても今更ながらも勉強が出来た。水の特性は?電子レンジは何故熱くなるのだろうか?マイクロウェーブ(電子線)によって水分子(酸素はマイナス電子、水素プラス電子)が激しく運動する。水はいろんな物質(イオン化するから)を良く溶かす(これも酸素と水素のプラス・マイナスがある故に)温まりにくく、冷えにくいのは水分子のスクラム結合が強いからである。植物のジャイアントセコイアは何故百メートルにも成長できるのか。根から吸収した水分がどうして百メートルの高さまで導管を通じて汲み上げられるのだろうか?(10メートルが限界なのに)これも水の特徴である、強力な水分子同士のスクラムのお蔭で、途切れずに樹木の突端までに引き上げられるのである。

水の三変化(個体、液体、蒸気)もその温度の幅が(もっとも)広いユニークさ。水の温度による比重の変化に特徴がある。摂氏4度で最少の体積となるゆえに、海の底から凍りついてくるような、恐ろしい(?)ことにはならない。だから海洋は地球の自転と併せ、大掛かりの海流が生じ、結果として絶妙の気候をもたらしているのだろう。これは、余計なことだが、「水五訓」黒田官兵衛(黒田如水)の教えがある。企業の応接室などで目にする。

一、 自ら活動して他を動かしむるは水なり
二、 常に己の進路を求めて止まざるは水なり
三、 障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
四、 自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ入るるは水なり
五、 洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり、雪と変じ霰と
化し凝しては玲瓏たる鏡となりたえるも其の性を失はざるは水なり

水を電気分解すると酸素が出来るのだが、日の出の健康被害、青梅のアレルギーの問題成人病、水のイオン化、活性酸素、フリーラジカル、SOD、NOX、SOX、水のイオン化や有機物のイオン化が、現代病の問題の根源ではないだろうか。酸素は、そもそも地球の生物の進化上では毒なのだ。光合成では酸素は廃棄物、毒である。数億年のうちに、廃棄物である酸素が大気の21%を占めるようになった。酸素は酸化力が強い。殺菌性があるから生命には毒。しかし、その廃棄物である酸素を同化する二つの酵素、つまり酸素の解毒の酵素を発達させたがゆえに、次の段階の生命が生まれ出た。

さて、その『水』の第三番目に挙げた汚染の話。

汚染を測定するには電気伝導度がある。無機物が多いほど高くなる。きれいな水、純水は本来不電導なのだが、蒸留水も空気中の二酸化炭素などを溶かして、導電性を帯び始め、30μS(マイクロシーメンス)程度になる。本日(11月15日)測定最低の43μSのとりわけ低い値は、処分場とは距離的には近いが、別の異なった水系(地下水脈)のものであった。汚れは無機物(電気伝導度、塩化物など。海の影響がなければ人間由来であろう)と有機物は(BOD等で計測出来る)による汚染と大別できる。上述のように日本の国土に大量に降る雨が、森林や水田によって自然にきれいに染み込んでいった『地下水』は素晴らしい資源であり、神様からの贈り物と言える。その『地下水』の有難さを忘れるどころか、汚すとは、まさに天に唾するもの。

2.ゴミ問題と拡大生産者責任EPRについて考える。

行政は「ゴミ問題は危機的である」、というがゴミ処分と不法投棄、いくら費用が掛かるのか? 製品はやがてゴミになる。製造したメーカーの責任はないのだろうか?
ペットボトルの再資源化は必要(悪)であるが、その原料と配合は企業秘密ということで開示がされにくい。そんなことで必要悪ながらも、効果的な再資源化が阻まれている?
ゴミは、そのままでも、焼却されても、再資源化されても大気や地下水を、必ず汚染するのだが、ならば効率的で環境や住民の健康への負荷が最も小さい方法を模索し、採用すべきなのに、である。

なぜに政治は、あるいは社会は、製品の生産者に対してその製品の処理・廃棄についても責任(拡大生産者責任:EPR)を負わせようとしないのか。生産者、メーカーは製品に責任を持つのみならず、その廃棄にも責任を持つべきであることは自明であり、日本も参加しているOECD(経済協力開発機構)の決議事項ともなっている。製品の廃棄について、いったいどのような理由と論理で、公共団体が(つまり税金により)最終処理をしなければならないのであろうか。製品の受益者ではない(つまりその商品を購入していない)市民が、その廃棄処理費用を一律に負担することにもなり得るし、受益者負担の原則からもおかしい。飲料などは消費者が製品を購入する際に、容器のデポジット制を導入することで、企業はその合理的な処理をしないわけには行かなくなる。作りっぱなしではなく、消費された後にまで製品の製造責任を生産者が負うこと。拡大生産者責任ということである。廃棄にまで責任を負うわけだから、メーカーもその際の費用を考慮して、製品設計段階から再資源化できない(しにくい)資材・原料を使用するはずがない。拡大生産者責任の原則やRE-USE RE-CYCLEの思想を徹底することは、行政(税金)の無駄遣いなしに、再処理・資源化できて、ゴミの減量化を図れるということである。白物家電などについては家電リサイクル法が出来たが、消費者にその廃棄の責任を負わせるものだから − 結果として不法投棄のような悲しい結末、となる。拡大生産者責任は、汚染者負担の原則でもある。汚した人がきれいにするのは当然である。一升瓶やビール瓶のなどについては、デポジット制が未だ残っている。(しかしその料金は、筆者が記憶している昭和30年代から一律10円と5円と全く変わらない。卵と同じく物価の優等生であると感心!するだけでよいのだろうか?)拡大生産者責任の運用やルール作りについては国や地域の実情に応じ、製品やサービスの性質においてCUSTOMIZEしてゆけば良い。でもこの考え方そのものは、人類の生産力が自然の持つ回復力をはるかに凌駕して、資源の限界が誰の眼にも明らかになり、現実となった今日において重要性を帯びてくる。この拡大生産者責任という考え方は民主主義や表現や言論の自由、財産の私有や教育を受ける権利などの基本的人権、勤労や納税の義務等、あるいは動物愛護の精神や、人種・性差別の諸問題と同等のレベルで、さらにLOHAS「lifestyles of health and sustainability」(健康と持続可能性の、またこれを重視する生活様式)と一緒に追及されるべき、いわゆる通念として正しいありかた(正義)を求めて、社会でもっと議論を行い定着、徹底されてゆくべきものと思う。時間はあまり残されていないかもしれないが。

原発の放射性物質の汚染対策費用(つまりマイナスの利益)は国が、税金と将来の国民に対するツケとして負い、原子力政策の利益は原子力村が独占するなんて、まるで「君のものはボクのもの。ボクのものはボクのもの」なんて、そんなおかしな常識がまかり通る世の中なのである。絶対の安全神話を唱えていても、いざ事故が発生してもそれは予知できぬ天災ゆへに不可抗力、つまり損害賠償は免責され、刑事責任も問えない体制なのだ。国も、政治家も、裁判所も、巨大マスコミも信頼できない状況では、市民の力(運動)でしかその間違いを正して行けないのではないだろうか。現代の(日本)人たちはへんに優しい、曖昧な、物分りのよい人々が多いのである。厳しいことは嫌われる、突出すると笑われる。正しいことをすればバカにされ、遠くに眼差しを置けば天然ボケと揶揄される状況においても、ひるむことなく。

ひるがえって今日(2014年11月15日)の日の出の水質調査でも明らかになったことは、電気伝導度も、CODも塩化物も高い数値が観測されたが、それは処分場からゴミ汁が漏れて地下水を汚染した証拠。

災害の時は、水道システムはすぐに破壊されるが、ところがどっこい地下水(井戸水)はしぶとくタフである。それも地下水の良いところ。(言うまでもなく自然は偉大なのだ)それが、おかしなことに近年、地下水は危険だという、刷り込みが巧妙になされているのではないか。産業や行政などの体制が、自分で地下水を汚しておいて危険だと騒ぐ。まさにマッチ・ポンプではないか。(ならば南アルプスの天然水などと言って、本来無料であるはずの水をペットボトルに入れて売る行為は、放火魔的確信犯?)

富士山に降った雨が柿田川に流れ出るのは30年後。地下水は、その間にフィルターも掛かるので安全と言える。デマに翻弄され、ごまかされてはいけない。反対にハザード・マップで危険性を訴えると、その地域の不動産の下落なんかを先に慮っていちゃもんつけるバカがいる。(正しいことを言うと下らぬ抵抗に会うのがこの社会なのか)
平井川の重金属の測定、あきる野市の発表ではNDだが安全か?
行政に安心してはいけない。NDとするには検出限界値を上げてゆくだけのこと。いくらでもごまかしが効く。だから市民がリードして行くべきである。しかし技術的には水中に溶け込んだ重金属類を測定するのは物理的に困難である。あの水俣病の時も、水質では検知できなかった。汚泥などに高く集中していたりする場合がある。しなやかに、したたかに、倦まず弛まず、日は暮れて道は遠いが、正しく仕事して、生活して勉強してゆく他ないのだろう。自分たちの健康は自分で守り、美しい国土と環境を維持し、未来を担保する再生可能な経済活動に従事するためには。この筆者である自分が、あまりエラそうなこと言っても無責任極まるので、取り敢えずは、出来ることから LOHAS 的生活を。無いより、あるだけ善し、ということでお許しください。

文責:古澤
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